一方で、その時からはっきり意識していた箇所もある。私が小説に絡んで妙好人を思い浮かべる時はいつも、次の才市の言葉と、それに続く大拙の記述がついてきた。

 

  • ありがたいな、ごをん、をもゑば、みなごをん。
  • 「これ、さいち、なにがごをんか。」
  • 「へゑ、ごをんがありますよ。
  • このさいちも、ごをんで、できました。
  • きものも、ごをんで、できました。
  • たべものも、ごをんで、できました。
  • あしにはく、はきものも、ごをんで、できました。
  • そのほか、せかいにあるもの、みなごをんで、できました。
  • ちやわん、はしまでも、ごをんで、できました。
  • ひきばまでも、ごをんで、できました。
  • ことごとくみな、なむあみだぶつで、ござります。
  • ごをん、うれしや、なむあみだぶつ。」

 

「あさましや、あさましや」が、これほどまでに「ごおん」につつまれてしまうということは、人間の一生において容易ならぬ転換を意味するものである。

これが自分らのように、いくらかの学問もしたり思索をしたものなら、前掲のごときは、何としてでも、作り出されないこともない。自分らは、理性とか、知性とかいうもので、外から自分を見ることを学んだ、それで、自分を欺き、他を欺くの術を知っている。

心の内に何もないことを、まことしやかに、さも実際に感じたかのように、饒舌(しゃべ)りもし、また書きもする。それが才市の場合になると、何事も体験そのものの中から涌いて出るのである。

 

小説を書き進めるためでなく、何のために小説を書くのか考えるために、今も励ましや戒めになっていることだ。また読んで、私も「世界のような大きな口で世界の人をだま」すのをやめて、「世界にあるもの、みな」を「噓」でなく、自分や他を欺く術を使わずに書きたいと改めて思う。

無論、書き言葉と話し言葉のあわいに居られた才市とはちがうから、いくらかの学問や思索を根こそぎ振り払うことなど不可能なのは10年前から承知していた。でもいつからか、せめて「何事も体験そのものの中から湧いて出る」ように書く努力をしようと考えるようになっていた。

 

見当違いの努力なのかも知れないが、最近の私は、小説を外で考え、外で書いている。各地を歩き、風景や今昔の人間の営みに触れ、興味深い場所を見初めると、なるべく近くの宿に何泊かして、日夜そこに通う。危険がなければ未明にも行ってみる。

手持ちのノートに文章で描写をして回り、動植物を把握し、図書館で土地の歴史を、縁のある人物を調べる。時を置いて、季節が変わるごとにまた同じことをする。季節が一回りし合わせて20泊ぐらいした頃には、小説が形をとっている。

 

場所、景色、天気、落ちている空き瓶まで、私がしかと見聞きしたものだけを小説世界に持ち込むと決めている。意識の届く範囲では、時や色や形さえ都合よく変えることもしない。唯一の例外は人間で、これは人間の出ない小説を書く術のない今の私にはどうすることもできないが、登場人物にも私のルールに従ってもらうことで事なきを得たつもりでいる。

 

そうと決めたら、小説が行き詰まるような時も間を埋めるようなことは書けないから、書き進めるきっかけに当たるまでひたすら待つしかない。

ちょっと変えれば使えそうなことがあっても我慢しなければならない。1本のクヌギの枝にさえずるヤマガラを見たとして、それを登場人物がいるところのコナラの枝に移して視線を上にやりたくなるのだが、そのヤマガラは「ごおん」でできたものではない気がする。

そんなことでは「へゑ、ごをんがありますよ」と答えられない気がする。私は、巷で言われる「自分で書くというよりも、小説に書かされている感覚」みたいな謙遜風のおためごかしでなく、才市のように平然と嘘偽りなく「この小説も、ごおんで、できました」の他力を口にしたいのだ。

そのために、自分でなく世界に小説を書いてもらう方法を探している。しつこく待って、たまさか小説が書き進められるようなものに当たると、本当に「ごおん」に包まれる思いがする。

 

それでもふと、こんな手間をかけて何の意味があるのかと自問しないでもないし、苦労を望んでして何か得ようとするのはむしろ自力の考え方なのではないかと思うこともある。

悩みは尽きないけれど、八万四千の煩悩をそのままに進む浅原才市の信仰のあり方が、いつも私を駆り立ててくれた。一生辿り着かないのではないかと思わされるこんな一首を、遠いどこかをさす道しるべとして。

 

  • さいちよい、へ、たりきをきかせんかい。へ、たりき、じりきはありません。ただいただくばかり。

乗代 雄介 NORISHIRO Yusuke

小説家
著書に、『旅する練習』(講談社、2021)など。

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