浄土双六は、マス目が仏教の世界観から妖怪や高僧に取って代わられたり、あるいは仏教とは関係のないテーマの飛び双六が流行していったりする中で、姿を消してしまう。いまでは仏教関連の展覧会の展示品として見ることはできるが、浄土双六は歴史の遺物として認定され、遊ばれなくなってしまったのだ。しかし近年、様々な取り組みがなされている。お寺で遊ぶ会を催したり、現代語訳・海外対応版が製作されたりしている。拙作『浄土双六ペーパークラフト』では、マス目の用語解説集をつけて、須弥山世界観を模したペーパークラフト上で遊ぶことができるようにした。

浄土双六の中身を見れば、仏教に精通している者が製作しているであろうことは推察される。江戸時代以前にそのような人物がいたことに驚かされる。しかも、浄土双六は見るだけで学びを得られ、遊んでも学びを得られるように作られているのだ。見て得られる学びとしては、マス目の配置がある。ふりだしは南閻浮州であり、世界の中心軸である須弥山の南方にある、人の住む島だ。経典に書かれている内容を見れば、その島の下部に地獄があるとされ、浄土双六でも南閻浮州の下部一列全てが地獄となっている。また、南閻浮州周辺や海に様々な生き方が散らばっているとされ、畜生・修羅・魚類・鳥類・虫類や天竜八部衆などのマス目の配置もそのようになっている。南閻浮州上部には須弥山内の天があり、欲界・色界・無色界へと天が上位になるにつれて、双六の上位にマス目として配置される。無色界の天のマス目は名前だけが書かれており、物質的なものからも欲望からも離れている無色界であるからこそ絵は描かれていない。須弥山世界観をマス目の配置や表記にしっかり落とし込んでいる。また、ゴールである仏のマス目のような箇所はあるのだが、実際にはゴールである仏のマス目は盤上に存在しない。なぜなら浄土双六の盤上とは三界、すなわち迷いの世界であり、そこから解脱しているのが仏であるからだ。

 

実際に遊んでみると分かるのだが、自身の分身であるコマの移動が大変である。各マス目には、そのマス目でサイコロを振った結果なんの目が出たらどこへ飛ぶかが書いてある。指定先のマス目がどこにあるか探すことは難しく、慣れてきても動かすには苦労するのだ。コマが飛び回っている様子とは生まれ変わり死に変わりする輪廻の苦しみのダイナミックさ、はたまた生きている時のこころの変わり様である、と表現できるかもしれない。どちらにしても、ままならなさに振り回されている私たちの現実の在り様だと実感できる。各マス目の飛び先については適当に配置されているのではなく、経典や説話集など出典があるようだと分かる。たとえば、無色界のマス目。得意の絶頂にいることを表す有頂天とは本来仏教語であり、無色界の最上の天のことである。そんな有頂天の無色界のマス目には地獄の列へと移動する可能性が含まれている。