一瞬を切り取るという特性
マンガは一瞬を切り取るメディアだ。瞬間を切り取るところにマンガの面白さと魅力がある。例えば上記の作品は、夏のお盆参りをモチーフに描いた作品だ。実際は、何年もお盆参りに通って気づかされたことを描いているが、具体的に取り上げているのはその経験の中のほんの数十分程度の出来事である。厳密に言えば、そのうちの何分かの景色にフォーカスし、その中の数秒を自分の視点で切り取って描いている。つまり、作中に描かれているのは、集中して考えれば数秒のシーンである。しかし、マンガの中には過ぎ去った時間や、自分の経験を、いわば封じ込めることができる。だが、そこでは多くのものは捨象されてしまっている。マンガで多くは決して語れない。しかし、作者の感じた一瞬と、読者が読む時間とが呼応し合い、作品に封じ込められた時間が読者の上にある意味で蘇生する。マンガを読むことで、お参りの時間があることの豊かさや、そこに流れていた時間や空間の中にあった何事かを感じとることもできるのかもしれない。この作品を通して、お盆参りの意義をあらためて感じたという声が寄せられた。
「分かりやすさ」と「危うさ」
2人の若者が、生活の中で仏教の教えに触れていく『ヤンキーと住職』という作品を描いた。作品に対して、様々な反応があった。「分かりやすい」とか、「仏教が分かりました」という感想も頂いた。
中学生・高校生が、仏教に出会う教材を作りたいという狙いもあって描き始めた自分にとっては、有難いと思う反面、危惧も抱いた。仏教の教えとは、分かったとか分からなかったとか、そういうものだっただろうか。法(教え)の言葉を手掛かりに、答えのでない問を自己の人生の中に生き、考え続けていくことが大切な営みなのではないだろうか。仏教の教えによって、私たちの生き方を問うことが大切な営みではなかったか。それがどこか、逆になってはいなかっただろうか。表面的な分かりやすさは、問いを眠らせてしまうような危険性もはらんでいるのではないか。なにより、自分自身がこれまで仏教に出遇い、様々なことを教えられてきたが、終わりなき学びの途上にいる。共に聞き続け、教えられ続けていく身である。
マンガという表現には、分かりやすく伝えられるという利点がある一方で、そこから欠落してしまうものもある。
結論として言えば、仏教をテーマに漫画を描く際には、その意義と危うさの両方を見つめ、その中を行き来することがどうしても必要なのだと思う。
2つの言葉を通して
2つの言葉を紹介したい。筆者が、仏教に関するマンガを描き始めてから出会い、印象に残った言葉だ。
1つは、ライターの武田砂鉄の言葉である。
いいねを狙って書く。そういうことをするとライターはあっという間にダメになっていく。
武田の仕事の姿勢を尊敬している。誰かに媚びるような文章を書かない人だ。上記の言葉は、ある対談での発言※2だが、その対談の少し前に、著名な俳優の方が自死されていた。武田は、例えば、その俳優の方のことに触れて記事を書いたら、ページビューは稼げるかもしれない、だけど、そういうことは絶対にしないようにしているという。武田の言葉は、アテンションや、「いいね」を狙って何事かを書くことのどこに問題があるのか、端的に示している。そこには書く人が決して見失ってはならない敬意の原点のようなものがあるように思う。「書く」ということは人間存在の深みや、意味の深みに触れることとつながっている。
長く、水俣病被害者に寄り添い、水俣病被害に係る相談を受けて解決を目指し、事件に関する調査研究と啓発を行ってきた団体がある。その団体の主催する水俣病の勉強会に出席したとき、次の言葉を聞いた。その団体で活動してきた、筆者と同世代の職員の方の言葉である。
私たちは、水俣病事件のことを伝えていかなければならない。だけど、ただ伝えるのではなくて、地続きに伝えていかないといけない。私たちが伝えられたように、伝えていくことが大事だと思う。
彼女の真意を聞いたわけではない。しかし、その言葉を聞くだけで分かることがあると思った。水俣病事件の悲惨・悲しみ、同じことを決して繰り返してはならないということを、われわれは伝えていかなければならない。だからといって、ただ伝えればいいのではなく、伝え方・残し方が大事なのだ。ふざけて扱うことなどできない。例えば、公害の問題を「ポップ」に「楽しく」扱い、伝えていくということは成り立たないのではないか。そんなことはしてはいけない。きっと仏教を伝えるときにも、同じ質の問題が通底していると思う。仏教もまた、人間の苦悩や悲嘆の中から生まれてきた教えである。
2人の言葉から、自分の執筆姿勢が問われてきた。
仏教の歴史においては常に、経典や論・釈、その他の著作をテキストとして新しい解釈が生まれてきた。また、教えに出遇った者が、その時代に応じた表現を試みてきた。現代においても、仏教という営みの生命に触れて、現代に生きる人に応じた言葉(あるいは表現)を紡いでいくことは必要不可欠なことである。しかし、何かを伝えようとするとき、それをどのように残すのかということも大切な問題だ。