「ひっくり返し」や「まぜっ返し」というマンガの特性
鼎談「宗教、宗教団体によるマンガの特徴は何か?」(『宗教と現代がわかる本2015』)の中で、宗教学者の井上順孝が次のように述べている。
まじめな世界で、信仰なら信仰という世界を築くときに、何をよりどころにその世界観をつくるかというところでは、近代にいたるまで一つの体系性というか、仏教やキリスト教各派が持ってきたものがあって、それを侵食してくるものとは闘ってきたわけです。そういう伝統的に伝えられてきた体系性すら失われている※3。
この発言の前後の文脈を補いたい。ここで議論されているのは、マンガというメディアは、常識をくつがえすとか、常識とは逆さのことをやるとか、とんでもないものを持ってきて楽しむという特性を持っているということである。マンガに限らず、人間は芸能や文学・芸術という営みにおいて、ある要素と別の要素を混ぜたり、ひっくり返したりして面白くしてきた。その中でも、マンガは特に「ひっくり返し」、「まぜっ返し」の要素が多いメディアだ。
仏教は「まじめ」な世界であると井上は述べている。しかし、「絵解き」や「節談説教」など芸術・芸能の中においても仏教が伝えられてきたことから分かるように、歴史的に仏教が常に「まじめ」な部分だけで語られてきたということはできない。
しかし、井上がいうように、その宗教のよりどころとなるような肝心要の部分、あるいは、信徒・宗教者たちが大切にしてきたものがある。それを侵食してくるものとは闘ってきたという歴史があることは、厳然たる事実である。それはいうまでもなく、これまでも、これからも大切なことだ。一方で、すべての「ひっくり返し」や「まぜっ返し」を否定すれば、新しいメディアを使った布教などは一切できなくなるし、新しい表現も生まれなくなってしまう。だからといって、何でもありになってしまえば、その宗教の持つ本質を見えなくしてしまったり、教えそのものを傷つけてしまったりする恐れもある。宗教は誰かにとって「生きること」そのものだからである。
マンガというメディアが多分に持っている、「ひっくり返し」たり「まぜっ返し」たりして楽しむ側面は、教えを棄損するあり方と常に触れ合っており、まじめに描いているつもりでも、そのまじめさがふとした弾みに悪ふざけに転化してしまうという恐れをはらんでいるように思う。ある意味での危なっかしさを内包しているのが、マンガというメディアだと考える。
伝統というものは古めかしいものではない。伝統によって私たちは教えを聞くことができている。その伝統の中で大切にされてきた教えの内部の生命、あるいは核心はいったい何なのかということを、私たちは常に確認していく必要がある。
マンガを使って、仏教のことを伝え・語ることには様々な可能性がある。だがマンガというメディアにはある種の暴力性や弱点もあることも見つめていくこと※4を忘れてはならない。それと同時に、真宗であれば、真宗の体系の中で、先人たちが大切にしてきたものは何か、われわれが今何を聞くべきなのか、何を伝えていかなければならないのかを知ろうとする営みの中で、描かれる必要があるのではないだろうか。