現代においてマンガを描くことの難しさ
哲学者の千葉雅也のツイートを引用したい。
ただ無為にバイクで暴走する、アホな遊びで盛り上がる。それは何にもならないエネルギーの消費だった。思い出だけが残った。だが今はアホな遊びを動画にすればマネタイズできるかもしれない。何をやってもどこかにマネタイズの可能性がチラつく。筋トレでも何でも※5。
現代の社会は、すべてマネタイズに結び付く社会になってしまっている。あらゆる物事が「ネタ化」してしまいかねない。そういう社会で何を聞き、何を語り、何を書くべきなのだろうか。仏教ですらネタになってしまう。そういう問題がある。仏教の要素をマンガにすることは、仏教の「ネタ化」と紙一重の表現であると感じる。教えが「いいね」に「換算されてしまうことの耐えがたさ※6」というものがある。
教えを聞き、伝えようとする者は、現代に呼びかける必要がある。しかしそれが、結局現代の価値に媚びるようなものであれば、単に現代に飲み込まれていくだけである。そうではなくて、人間が本当に何を求めているのか、如来の悲願に通じるような、深い要求を尋ねていくような思索をしなければならないのではないだろうか※7。
おそらく、仏教の教えを聞いている者が、マンガを描こうとするとき、そこには逡巡というものが必要なのであろう。戸惑いやためらいの中で描かれる必要があると思うし、私が聞いてきた教えや、私に教えを伝えてくれた存在が、私に逡巡することを引き起こさせるように思う。そして、唯一、何か私のマンガから伝わることがあるとすれば、その逡巡させるものそのものなのではないかという気すらしている。
「誠を尽す」ということと「対話」
最後に、筆者なりに大切にしたいと思うことを述べたい。
親鸞は主著である『教行信証』の中で、善導の『往生礼讃』を引用し、
[原文]自信教人信難中転更難 大悲弘普化真成報仏恩※8
[現代語訳]自ら信じ、人に教えて信じさせることは、難しい中にもなお難しい。しかし、仏の大悲はどこまでも弘がっていき、すべてのものを教化してくださる。真に私たちはその仏恩を報じていくほかないのである※9
と述べている。「自信教人信」ということが、念仏者のあるべき姿勢として受けとめられている。自ら念仏の教えを信ずると同時に、他者にもこれを教えていくことが、仏への報恩になると語られる。
僧侶・哲学者の清沢満之が「真宗大学開校の辞」の中で、「自信教人信」について次のように述べていることを知った※10。
本願他力の宗義に基きまして…中略…自信教人信の誠を尽すべき人物を養成するのが本学の特質であります※11、
清沢は「自信教人信」に「誠を尽す」という言葉をそえている。ここに私たちが受け取るべき大切なメッセージがある。本願他力の宗義に触れて、書こうとする自分の言葉や表現が誠であるかどうか、問い尋ねるということが大切なのではないだろうか。誠を尽くそうとすること。もちろん、その誠の内実を尋ねていくことも同時に必要であろう。
しかし、誠を尽くすといっても、私たちが一人でそれを成し遂げることは難しい。大切なのは、作者が批判を嫌わないということである。批判を厭わずに、対話・議論をすることだと思う。もちろんそこにおいては、謙虚に「法(教え)」を問い尋ねるという姿勢を大切にしなければならない。
ある鼎談の中で、『キリスト新聞』編集長の松谷信司が、キリスト教に関するマンガが描かれることについて、
それが全部正しいか正しくないかは別として、でもサブカルからそういう見られ方をしているということを知り、キリスト教の本家本元としてはこういう解釈だし、ここはこうだよねみたいな対話をすればいいんであって、全否定をする必要もない※12
と指摘していることには頷かされる。宗教に関わる表現への批判を恐れるあまりに萎縮することの中にも、また別の問題があるのだろう。マンガをきっかけとしてコミュニケーションをすることが大事なのではないか。批評・批判を許す空間を持つこと。マンガをきっかけに、対話し合える場、批判や異論があったとしても、そこから共に議論し、聞思し、聴聞する場を開いていくことが大切なのではないか。仏教に関するマンガを批評し合ったり、受けとめを確かめ合ったりする場所を持つことである。
浄土真宗の法座には、伝統的に座談という時間がある。説法を聞いて終わるのではなくて、聴者も、お互いに説法に対する理解を語り合い、自らの信仰を披瀝し、質疑する機会を持つのだ。聞いた教えの受けとめを確かめ合うという時間が大切にされてきた。一人合点していたということが、他人に話すことで初めて知らされるのである。そうして一人合点して、我がものとして教えを握りしめようとする自分だからこそ、誰かと教えを共有したり、あるいは間違って解釈しているところをときに正してもらったり、疑問を他者と共有したりすることが大事なのである。仏教を題材としたマンガを通して、そうした場を開くことこそが大切なのではないだろうか。
《注釈》
- ※1 釈徹宗、ナセル永野「『スラムダンク』を読むとイスラームがわかる!?」、渡邊直樹編『宗教と現代がわかる本 2014』平凡社、2014年、p.182。
- ※2 withnews、“武田砂鉄さんと考える『わかりやすい記事の罪』コロナショック後『PV狙いの記事』は生き残れるのか”、2020年08月19日。
- ※3 井上順孝、塚田穂高、藤井修平 「宗教、宗教団体によるマンガの特徴は何か?」、渡邊直樹編『宗教と現代がわかる本2015』、平凡社、2015年、p.152。
- ※4 マンガの良い面でもあり、同時に注意しなければいけない面とは、例えば「ものごとを単純化し、デフォルメして伝えることができるところ」である。作者の恣意によって単純化もできてしまうことが、マンガを描く際に警戒しなくてはならない点の一つだと考える。
- ※5 千葉雅也、Twitter(現X)、2021年6月15日。
- ※6 綿野恵太『「逆張り」の研究』、筑摩書房、2023年、p.112。
- ※7 この点に関して、本多弘之氏の論考に示唆を受けた。本多弘之『浄土 その解体と再構築「濁世を超えて、濁世に立つ」Ⅰ』、樹心社、2007年、pp.167-168。
- ※8 親鸞『教行信証』、教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典全書』Ⅱ、本願寺出版社、2011年、p.101。
- ※9 真宗大谷派教学研究所『解読教行信証』上巻、東本願寺出版、2012年、p.252。
- ※10 寺川俊昭「教化のめざすもの―信心の共同体の現前を求めて―」、『真宗教学研究』第25号、pp.21-22。
- ※11 大谷大学編『清沢満之全集』第7巻、岩波書店、2003年、p.364。
- ※12 吉村昇洋、松谷信司、ナセル永野「マンガも宗教も、めちゃめちゃおもしろい」、渡邊直樹編『宗教と現代がわかる本 2015』、平凡社、2015年、p.64。
近藤丸 Kondoumaru
浄土真宗本願寺派僧侶、漫画家
本名 近藤 義行。著書に、『ヤンキーと住職』(KADOKAWA、2023)など。
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