その一例として興味深いのは、真宗において、一休が本願寺中興の祖・蓮如(1415~1499)と親しく交流していたと伝えられてきたことである。
これは、一休が修行した祥瑞寺と、蓮如が一時期活動拠点としていた本福寺とが、ともに堅田(滋賀県大津市)で向かい合う位置にあったことにも起因するものに思われる。
ただ、これが単に逸話として伝わるのみならず、真宗教学でも言及されるようになっていく。その一例が、敬信『浄土真宗流義問答』(正徳六年[1716]刊)である。
その巻三下には、徳川期の儒学者・永田善斎(ながた・ぜんさい、1597~1664)の漢文随筆『膾餘雑録』(かいよざつろく、承応二年[1653]刊)を引用しつつ、一休について言及している。
永田が一休を「実に大悟明眼の一異人」であると評価していることに追補する形で、一休にはその世話をしていた尼の森侍者(森女)がおり、その師である華叟宗曇(かそう・そうどん、1352~1428)は大津堅田の祥瑞寺に蟄居して尼と漁業を営んでいたことから、華叟と一休はともに肉食妻帯していたと記している。
そして、その肉食妻帯について今も昔も誰ひとり批判する者がなかったのは、その徳が高かったゆえである、と述べるのである。この記述が示すのは、大津堅田で真宗門徒に近いところにいた華叟や一休も肉食妻帯をしており、有徳であることから誰も咎めることがなかったことを強調する意図である。
それは翻って、親鸞や蓮如以来、肉食妻帯をいとわぬ教えを受け継いできた真宗の在り方を改めて意識させるものといえる。ただし、華叟は正長元年[1428]に示寂していることから、応仁の乱(1467~1477)のときまで堅田に蟄居していたということは誤りであり、尼僧が傍らにいたかもはっきりとはしない。こうした一休像を提示するのは、ことによると、真宗側の牽強付会ともみえてくる。