もうひとつ興味深い事例は、徳川期の戯作である。山東京伝『本朝酔菩提全伝』(ほんちょうすいぼだいぜんでん、文化六年[1809]成立)には、一休が楽器を演奏する骸骨とともに酒宴を楽しみ、遊女との一夜を味わう姿が描かれる。

「風狂」一休の面目躍如というべき場面であるが、その着想の源のひとつとなっているのは、『一休骸骨』(奥付は康正三年[1457])である。

 

一休と思しき僧が墓場に迷い込み、そこで骸骨どもが呑めや歌えの大騒ぎを楽しむところから始まる本書では、人間が欲望におぼれ最後は虚しく没していくさまが、一貫して骸骨の姿で描かれる。

内容的には「空」の思想など仏教の基本的な考えを示すものである(が、一休自身の真筆というわけではなく、一休の名を冠した入門書といった性格がある)。ここに描かれる骸骨の姿は、まさに『本朝酔菩提全伝』に描かれるものと重なる。

 

この場面のもうひとつの典拠というべき徳川期の『一休関東咄』(いっきゅうかんとうばなし)第七「堺の浦にて遊女と歌問答の事」には、一休が「地獄といえる遊女」と歌の応酬をする逸話が伝わる。

地獄太夫の姿を前に、一休は「聞きしより見て怖ろしき地獄かな」と上の句を示すと、地獄太夫は「しにくる人のおちざるはなし」と返すのである。己の生そのものを「地獄」と認識している太夫は、欲望のままに――つまり肉欲にあふれて――自分の元にやってくる男どもなど、空の何たるか、仏の何たるかがわかるまい、と批判するかのように挑みかかって来る。

しかし、地獄太夫はそうした自身の生こそ、男どもを自らの煩悩に向き合わせる仏道そのものと捉えていたようにもみえる。ただし、地獄太夫の逸話は一休自身の手で書かれた漢詩集の『狂雲集』や『自戒集』、或いは一休の弟子たちによる『一休和尚年譜』などにはみられない。一休の「風狂」と相まって、そうした強烈なキャラクターが後代に創作されたものと考えられる。