いま、真宗での言及と山東京伝の描出を例にとったが、これらが全くの捏造であると言いたいのではない。むしろ、そうした像は一休が『狂雲集』『自戒集』といった著作類で述べる考え方に何らかの形で重なり、どこかで実像を髣髴とさせるものでもある。
先ほど『浄土真宗流義問答』で言及のあった森侍者(森女)にしても、『狂雲集』で森女との純愛を詠い、生々しいまでのエロスを赤裸々に描いているのである。これは室町禅林文学ではもちろん、それまでの漢文学でも類をみないものとなっている。
また『狂雲集』によれば、文明二年[1470]11月14日、一休77歳のときに住吉神社の薬師堂で森女と出逢ってその艶歌を聴き、翌年春に住吉の雲門庵で再会して、互いの思いを確認したという。
また、『真珠庵文書』の「祖心紹越酬恩庵根本次第聞書案」には、文明七年[1475]、一休82歳の時に酬恩庵内に敷地を買い取ることになったが、資金の一部を森侍者の衣服を売って用立てた、などと記載がある。森女が、一休の周辺にいたのは確かなのである。
こうして、一休は虚と実が入り乱れつつ、その魅力と毒気(!)を現代にまで伝えているように感じられてくる。いわば、一休像の虚と実が連鎖していきながら、我々にさまざまなことを考えさせもするのである。近松門左衛門は、「虚実皮膜論」(きょじつひにくのろん)といわれる次のような一節を開陳している。
- 芸といふものは実(じつ)と虚(うそ)との皮膜の間にあるもの也。成程今の世、実事によくうつすをこのむ故、家老は真の家老の身ぶり口上をうつすとはいへ共、さらばとて真の大名の家老などが、立役(たちやく)のごとく顔に紅脂(べに)白粉(おしろい)をぬる事ありや。又真の家老は顏をかざらぬとて立役がむしやむしやと髭は生(はえ)なり、あたまは剝(はげ)なりに、舞台へ出て芸をせば慰になるべきや。皮膜の間といふが此(ここ)也。虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰が有たもの也。【中略】それ故に画そらごとゝて、其像(すがた)をゑがくにも又木にきざむにも、正真の形を似する内に又大まかなる所あるが、結句人の愛する種とはなる也。趣向も此ごとく、本の事に似る内に又大まかなる所あるが、結句芸になりて人の心のなぐさみとなる。
(穂積以貫「難波土産」発端に所収)
つまり、ウソとマコトが紙一重のような表現を以て、舞台上の演出は迫真のものとなるという。言い得て妙である。どうやら一休の像も、虚と実が「皮膜」のようになって、我々の前にあらわれ続けているようである。