「懲らしめ」と「立ち直り」

繁田真爾 SHIGETA SHINJI

 1907年といえば、年初に日露戦争後の恐慌が始まり、自然主義文学の傑作として名高い田山花袋『蒲団』が発表された年である。それ以来、実に118年ぶりのことだという。

 このたび6月1日に施行された、新しい「刑法」のことである。1907年に現行の刑法が制定されて以来、初めて刑罰の種類が変わり、「拘禁刑」と呼ばれる刑罰が新設された。これまで、刑事施設への拘束をともなう刑罰のほとんどは、労働(刑務作業)を義務とする「懲役刑」であった。この懲役刑と、(ほとんど形骸化していた)禁固刑を一本化して、新しく「拘禁刑」が創設されたのである。

 この小文を書いているのは、5月下旬。改正を間近に控えて、世論もそれなりに賑やかになるかと思っていたが、そのような声はあまり聞こえてこない。118年ぶりに私たちの刑罰が変わるという、まさに歴史的な節目にもかかわらず、である。

 刑法・刑罰・懲役・拘禁などというと、どれもお堅い制度の用語として、私たちにはどこか縁遠いものに感じられるのかもしれない(そもそも刑法が「表記の平易化」をめざして口語体・ひらがな表記になったのも、ようやく1995年のことだから、それも無理はない)。

 しかし、今回の刑法改正の眼目は、実は「懲らしめ」から「立ち直り」へと、刑罰の目的を明確化することにある。たとえば刑事施設では、懲役を義務としないことで、薬物や性犯罪等の矯正プログラム、あるいは医学的な治療などを受けられる機会を大幅に増やすことも可能になる。これまでの懲役が、まさに文字どおり「懲らしめ」のための労働を科していたのに対して、これは大きな変化だろう。

 もちろん「懲らしめ」から「立ち直り」へと、刑罰の目的がねらいどおりに転換するかどうか分からない。古くは“勧善懲悪”、21世紀に入っては“自己責任”と、犯した過ちに対する責任を問い、応分の処罰を求めてきた私たちの社会が、「懲らしめ」からどれだけ離れられるのか、今のところ未知数だろう。

 また「懲らしめ」と「立ち直り」は、法や刑罰の世界に限られるものではない。家庭や教育、あるいは職場をはじめとする社会組織など、人と人とが寄り集まり、何かしらの規範やルールが成立する集団では、さまざまな「懲らしめ」と「立ち直り」、そして両者の間での揺らぎや葛藤が存在するだろう。子どもの成長を長い目で見守る親でありたいと願いつつ、家庭のルールを破った我が子に対して、つい声を荒げたり、ペナルティを科したりするのも、私たちの日常にありふれた光景であろう。

 去る5月17日、東京都内のとある場所で、モンゴルの元大統領・エルベグドルジ氏の講演を聴く機会があった。モンゴルで、2017年に死刑制度の廃止を実現したことで知られる人物である。当時モンゴルでは国民の8割以上が死刑制度を支持していたが、それを政治判断で廃止した経緯などが語られ、興味深く聴いた。

 氏は、どうして日本では今でも死刑が存続しているのか、その理由を聴衆の私たちにききたがっていた。「懲らしめ」から「立ち直り」へと、刑罰の理念を変えていこうとしている日本の現在。「懲らしめ」の最たるものであり、「立ち直り」を一切認めない死刑制度について、私たちはこれからどのようにその必要性を説明することになるのだろうか。「立ち直り」を支え、それが可能な社会を本気で目指そうとしているのか、私たちの覚悟が問われているのだと思う。

繁田真爾 SHIGETA SHINJI

親鸞仏教センター嘱託研究員、東北大学大学院国際文化研究科, GSICSフェロー。
明治学院大学、中央大学、日本大学、東京医療保健大学、各非常勤講師。
早稲田大学台湾研究所招聘研究員。

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『現代と親鸞』第51号

■研究ノート

加来 雄之
安田理深『興法』論文群における「実践」と「寂滅(本来性)」
――安田理深による「衆生」の「基礎づけ」(二)――

■ 第5回「現代と親鸞」シンポジウム

全体テーマ 宗教と家族――教えの継承と多様性

【提題Ⅰ】宗教二世と家族
菊池 真理子

【提題Ⅱ】性の多様性と日本仏教の現在地
若佐 顗臣

【提題Ⅲ】日本仏教と家族
大谷 由香

総合討議
コメンテーター 武内 今日子・加来雄之

■ 第6回「現代と親鸞」シンポジウム

全体テーマ
戦後歴史学と宗教研究――教科書からこぼれおちたものを「民衆」・「宗教」からみる――

【提題Ⅰ】芳賀幸四郎からみる戦中戦後の仏教史(禅文化史)を手がかりに
飯島 孝良

【提題Ⅱ】服部之總の親鸞・蓮如論が問いかけるもの――戦後日本宗教史研究の一断面――
近藤 俊太郎

【提題Ⅲ】安丸良夫の民衆史研究が問いかけるもの――歴史研究と宗教史研究の対話のために――
繁田 真爾

総合討議
コメンテーター 加藤 陽子

■ 連続講座「親鸞思想の解明」

本多 弘之

「 本願回向の行信 ――『一念多念文意』を読み解く―― (2)

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「〈心〉のありか」への旅

加来雄之 KAKU TAKESHI

 2025年5月22日、親鸞仏教センターにおいて、脳科学者の恩蔵絢子氏と劇作家の嶽本あゆ美氏をお招きして、第72回「現代と親鸞の研究会」「〈心〉のありか——アルツハイマー型認知症に問われて」を開催した。アルツハイマー型認知症が問題となるのは、記憶と能力が失われることによって、自身のアイデンティティーや親しい人との関係が崩れていく煩悶と、またその人との関係を構築し直す生々しい営みが、そこに存在するからであろう。

 

 両氏は、このアルツハイマー型認知症という現実をどのように受けとめるかについて、恩蔵氏は、脳の機能を人類の悩・ほ乳類の悩・は虫類の脳という三層で捉えることで「その人らしさ」を成り立たせる〈心〉のありかを「感情」に見出すことができることを、嶽本氏は、私たちの「愛」を成り立たせるような〈心〉のありかを、個人の心理のうちにとどめず社会的存在の関係の間(あわい)から見直すことを提言された。両氏の専門的な知識、生々しい体験と実践、実証例にもとづく発表はきわめて説得力に満ち、私たちの心に響くものがあった(『親鸞と現代』52号に掲載予定)。

 

 研究会を縁に私が一仏教徒として「〈心〉のありか」について考えたことを、できるだけ専門用語を使わずに、述べてみたい。

 

 苦悩する自己の実存的・存在論的意味を問うてきた仏教は、悩の機能である生理的・心理的な次元にも、また人間関係という社会的次元にも還元することができない〈心〉の次元を問題としているように思う。


  〈心〉には、たとえば知情意というような心理作用に解消されてしまうことない、何か底しれない深さがある。人間の愛憎や悲哀がとどかない深い場所という感覚が成り立つような〈心〉の深い層がある。  
 私たちは、人の世において、さまざまな愛憎に苦しみ、戦争や災害などによる困難で苛酷な状況を生きなければならないが、そのとき、そのような苦難を乗り越えたいという願いや祈りを生みだしてくる場という次元の〈心〉がある。

 

 私はそのような〈心〉を、私たちの経験のすべてを成り立たせ、引き受けている場としての〈心〉であると考えたい。いま、ここに、私として、さまざまな他者や事物と関わっている、この身という不可思議な事実を受けとめるという次元で成り立つ〈心〉である。どのような現実であってもそれをそのまま受けとめている身の事実に相応する〈心〉である。その〈心〉は、私たちがそれを意識しようとしまいと私たちの根底に厳然と存在する。それは、どのような人間と社会との濁りも悪も悲惨もそのままに引き受けている〈心〉の場と表現してもよい。

 

 そしてその〈心〉こそ、そのまま人間の苦難を正しく受けとめる祈り、願いそして覚悟や自覚が成り立つ場でもあるにちがいない。


 たとえば、仏教徒の私にとっては、その〈心〉は、私たちがブッダによって呼びかけられているという歴史的社会的な事実を受けとめる場として存在している。そしてその〈心〉が、思いを離れることができない私たちに如来の願いを受けとめることを可能にする。仏教には、そのような〈心〉のありかを探究する伝統が確かに存在する。

 

 とくに親鸞の思想を学ぶ私にとって、その〈心〉はどのような絶望的な状況になってもその事実を事実のままに受けとめて崩れない信知が成り立つ場である。このような〈心〉を明らかにしたいという切実な要求が、私の親鸞の思想の学びを突き動かしてきた。
 この深い次元の〈心〉は、科学的実証的な立場から語ること難しいが、私たちの自己・他者・世界の見え方や受けとめ方(この人世に処する心構え)に決定的な影響を及ぼすのではないかと思う。もちろん、この〈心〉が、どこまで現代人に必要とされるのか、またそのような問いが具体的な困難や苦悩の中にある人にどのような実践的な意味をもつのか、分からない。しかし、そのような「〈心〉のありか」がはっきりしなければ、少なくとも仏教を学ぶものとしてアルツハイマー型認知症という現実にきちんと向き合えないのではないかと感じるのである。


 
 今日、人間とは何かがあらためて根底から問われている。たとえばAIが人間に取って替わるという危機意識に動揺する私たちがいる。しかし、もしその危機感が知識や能力に立った浅薄な人間観にもとづいているならば、それこそ人間の「〈心〉のありか」を見失う危機ということができるのかもしれない。
 今、私は、仏教が明らかにしてきた深い〈心〉の場所への旅を求められているのかもしれない。


 とくに親鸞の思想を学ぶ私にとって、その〈心〉はどのような絶望的な状況になってもその事実を事実のままに受けとめて崩れない信知が成り立つ場である。このような〈心〉を明らかにしたいという切実な要求が、私の親鸞の思想の学びを突き動かしてきた。



 この深い次元の〈心〉は、科学的実証的な立場から語ること難しいが、私たちの自己・他者・世界の見え方や受けとめ方(この人世に処する心構え)に決定的な影響を及ぼすのではないかと思う。もちろん、この〈心〉が、どこまで現代人に必要とされるのか、またそのような問いが具体的な困難や苦悩の中にある人にどのような実践的な意味をもつのか、分からない。しかし、そのような「〈心〉のありか」がはっきりしなければ、少なくとも仏教を学ぶものとしてアルツハイマー型認知症という現実にきちんと向き合えないのではないかと感じるのである。


 今日、人間とは何かがあらためて根底から問われている。たとえばAIが人間に取って替わるという危機意識に動揺する私たちがいる。しかし、もしその危機感が知識や能力に立った浅薄な人間観にもとづいているならば、それこそ人間の「〈心〉のありか」を見失う危機ということができるのかもしれない。


 今、私は、仏教が明らかにしてきた深い〈心〉の場所への旅を求められているのかもしれない。

加来雄之 KAKU TAKESHI

元大谷大学文学部真宗学科教授。
大谷大学名誉教授。
現在、親鸞仏教センター副所長。

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  タマネギに種はあるのか?

 「本当の自分探し」ということが流行ったことがあります。

 今の自分ではない、私の中にある本当の自分とはなにかを探そうというのです。しかしどれだけ私の心の中を内を見つめても本当の自分はどこにもないのです。

 それをタマネギを剥くことに譬えて話してみましょう。

 タマネギの中に種をさがそうとしてタマネギの皮を剥いていく……。

 

 でも、皮も剥いても剥いても種はありません。

 すべて剥き終わると、私たちは何もなかったことに気づきます。

 

 タマネギを剥くときには涙がでます。

 同じように、自分探しのために、これも自分じゃない、これも自分じゃないと、否定していかなくてはならないことは、つらい作業です。

 今の自分に納得ができても、いつまでもそれを保ち続けることができるわけではありませんし、他の人と比べて、自分の容姿や気持ちが変わることだってあります。

 結局、私の中に他の人と交換できないような、変わることのない「本当の自分」はいっこうに見つけることができないのです。

 つまり、あたかもタマネギの皮を剥いていけば最後には何も残らないのと同じことです。

 でも、考えてみましょう。

 タマネギの皮こそタマネギそのものであったように、今日の私にまでなってきた経験が私を形づくるのであって、そのほかに本当の私などはないのではないでしょうか。

 今、ここに、さまざまな関わりを生きている私を離れて本当の私などどこにもないのです。

 

 さらにもう少し考えてみましょう。

 タマネギがタマネギになるためには、土に植えられることが必要でした。雨が降り、日が照ることが必要でした。人が肥料を与えるなどの世話が必要でした。

 そのすべてが、タマネギがタマネギになるために必要な条件でした。すると、私が私になるためのすべての条件が、今の私を成り立たせていたことに気づかされるのです。

 私を私にしてくれている様々な条件を忘れて、私の中の本当の私を探すことは、実は大きな勘違いなのかもしれません。

 

親鸞仏教センターホームページ

 

近現代『教行信証』
研究検証プロジェクト
研究紀要

― 第8号 ―

◆ 特別企画報告
プロジェクトメンバー座談会
近現代『教行信証』研究の「これまで」と「これから」
― 序・創造的解釈・親鸞像 ―
  本多弘之・加来雄之・大胡高輝・青柳英司
  名和達宣・藤原 智

◆ 研究論文
『教行信証』の慶長本と源覚本について
― 坂東本との近似性に関する一考察 ―
  青柳英司

◆ 研究レポート
三浦叩石筆録『安田理深師述 信巻別序考一』
(解題・翻刻・解説)
  加来雄之

「顕浄土真実信文類三」(信巻)標挙
  青柳英司


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近現代『教行信証』
研究検証プロジェクト
研究紀要

― 第7号 ―

◆ 研究会報告
近世真宗教学の課題 ― 特に成立期を中心として ―
  三浦真証

◆ 研究論文
🔗『教行信証』解釈の〈方法〉をめぐって(下) ─「創造的解釈」の可能性は如何─
  名和達宣

◆ 研究レポート
顕浄土真実信文類序(別序)
  青柳英司

『教行信証』における「後序」の位置付けについて ─ 呼称の変遷と史実性をめぐる議論 ─ 
  藤原 智

安田理深筆録 曽我量深「『教行信証』「後序」講義」 二篇(解題・翻刻・解説)
  加来雄之


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小さな冊子で世界へ漕ぎ出した大きな乗り物

伊藤 真 ITO Makoto

 筆者の前回の「今との出会い」(第242回「ネットオークションで出会う、アジアの古切手」)に引き続き、またネットオークションの話題で恐縮だが、またまた出会ってしまったのでおつき合いいただければと思う。ただし、今回は古切手ではなく古書である。

 今回¥1,000という値段で購入したのは、文庫本よりひと回りほど大きいが手頃なサイズで、前書きを入れてわずか35ページの薄っぺらな英文小冊子。画像のとおり、蓮(だろうか?)をあしらった(日焼けと経年劣化の見られる)薄青緑色の表紙に、『大乘佛教大意』と右から左へと横書きの旧字体の和文タイトルがある下に、いかにもエキゾチックさを狙ったような古風な英字フォントで “OUTLINES OF THE MAHÂYÂNA AS TAUGHT BY BUDDHA.” とある(Âは今ならĀ。以下、引用では修正する。最後にピリオドが打ってあるのは当時の流儀だろう)。行によって異なるフォントや文字の大きさはチグハグな印象を与え、しかもBUDDHAの語は行の中央からちょっと左へズレてしまっている。なんだかイマイチな感じで、「こんなもんに¥1,000出すか⁈」と思われるかもしれないが、私にとってはそのイマイチっぽい見てくれも含めてなんだか愛おしい(古書として価値があるのか、私は知らない)。なぜならこのちっぽけな小冊子こそ、明治維新以降に仏教界を襲った荒波を乗り越え、さらに文字どおり太平洋の海原をも越えて、日本の仏教を大乗仏教の精華として——この際その主張の正否は別にして——初めて大々的に世界に訴えようとした仏教者たちの思いがこもった小品だからなのだ。




 ご存知のかたもおられるだろうが、これは1893(明治26)年にシカゴ万博に合わせて開催された「第1回万国宗教会議」(World’s Parliament of Religions) に日本の仏教の代表団(鈴木大拙の師でもあった臨済宗の釈宗演——その演説原稿は大拙が英訳した——や、

 ご存知のかたもおられるだろうが、これは1893(明治26)年にシカゴ万博に合わせて開催された「第1回万国宗教会議」(World’s Parliament of Religions) に日本の仏教の代表団(鈴木大拙の師でもあった臨済宗の釈宗演——その演説原稿は大拙が英訳した——や、浄土真宗本願寺派の八淵蟠龍ら)が参加したのに合わせ、和文原稿が英訳されて、はるばる米国へ運ばれて配布されたものだ(ほかにも清沢満之の『宗教哲学骸骨』や赤松連城の『真宗大意略説』などいくつかの英訳も配布された)。だが実は正確には、私の手元にある1冊は米国で配布されたものが日本へ里帰りしたのではないようだ。表紙をめくると鮮やかな朱色のスタンプが押してあり、中央に出版元の「佛教學會」の名称、周囲に「謝海外施本賛助之好意為紀念贈呈之」と漢文で書かれている。米国で施本として配布するために寄付を募って出版し、その賛助者への御礼の記念品として贈呈されたものらしい。今風に言えば、クラウドファンディングのリターン(お礼の品)のようなものである。

 さて、この小冊子の著者は“S. KURODA, Superintendent of Education of the Jōdo-Sect”とあるとおり、浄土宗学本校(大正大学、佛教大学の前身)で校長・学監を務めた学僧の黒田真洞(くろだ・しんとう。1855–1916年。 1912 [明治45]年に正僧正、没後に大僧正追贈)。だが、「天台、真言、臨済、曹洞、真宗の各学者らの精査を受け」 (carefully examined)、浄土宗学本校の英語教員らが英訳したと記され、「万博に関連してシカゴで開催される万国宗教会議の参加者らへの配布のため」とある。黒田師による浄土宗の解説や宣伝の書ではない。日本の仏教界をあげて、万国宗教会議で日本の仏教、東アジア仏教、大乗仏教を新たな時代にふさわしい世界宗教として訴えることを目的としたものだ。

 ではその「大乗仏教」の「大意」とはどういうものなのか? 本書は6章から成る(なお、下記に記す日本語の章題は、同年にあとから出版された日本語版『大乗仏教大意』に従った)。

緒言(Introductory Remarks)/第1章 施教綱領 (Principles of Buddha’s Teaching) /第2章 解脱涅槃 (Mokṣa and Nirvāṇa)/第3章 業報因果 (Action and Results, Cause and Effect)/第4章 染浄因縁 (Pure and Impure Causes and Conditions)/第5章 万法唯心 (All Things are Nothing but Mind)/第6章 宗派異同 (Sects in Buddhism)

 まず緒言では仏陀の生涯をごく簡潔に述べたのち、その教法はすべて「大乗と小乗」に包括され、どちらも等しく「一仏の教化」であり、「転迷開悟の法」であるが、「観苦得道の法」の「小乗」に対し、「観空得道の法」の「大乗の教義は徧く小乗の教法を包蔵」するという。このあたりには、南伝仏教こそが正当な「仏教」だと見ていた当時の西洋のトレンドに対し、大乗はその堕落でも異端でもなく、「小乗」の教えをも含む、より包括的な教えであることを訴える意図が見て取れる。

 続いて第1章では「無我」を中核的な仏説とするが、あくまでも「我」や「有空」への誤った執着を滅することが目的であり、「自己も魂も存在しない」ということを説く教条主義的な教理 (fixed dogma) ではないと言う(ここにも西洋のネガティブな大乗観に対する目配りを感じる)。そして第2章では自他、主客、正邪などの分別的な執着を乗り越えた完全に自由な状態こそ「解脱」だとし、心の真の性質 (true nature of mind) を顕現させた完全な永遠の楽 (perfect and everlasting happiness) を得ることが「涅槃」だと言う。また、「小乗」が「断滅」 (eternal extinction。日本語版では「寂」) をめざすのに対し、「涅槃」は「単なる断滅」でもないし、あらゆる人に開かれている大乗の「解脱」は「遠くに求むべきものではない」としている。

 第3章では因果(縁起)の理法が説かれ、仏教が近代的な理性や哲学的な吟味に堪えるものであることを訴えるかのようである。このためすべてを「一者」 (the “One”) に帰して諸法の自性は常住 (the nature of all things is permanent) とするもの、天地と万物の造物主 (creator) を説くもの、万法を四大で説明するものなど、(バラモン教、キリスト教、唯物論などを想定したと思われる)「異教」(heretics。日本語版では「異道」) の教理をすべて、因果の理法を理解しない断常二見として排斥している。その上で、第4章では、そうした因果の理法に従う行為の善悪・染浄を問い、声聞・独覚・菩薩の三乗が行う「解脱」へ至る行法を「出世間の善」と規定する。本来的に清浄で善悪の差別の相なき心の本性 (the true essence of mind) と調和する行為を実践すれば、諸仏と平等の果実を得られるとして、「心」に焦点が移っていく。(なお、「出世間の善」は今なら一般にsupramundane goodなどと訳すが、ここではecclesiastical goodとされいて、どこか時代がかった感じがする。このあたりには仏教用語の訳語も定まらない時代に英文を練り上げていったパイオニアたちの苦闘が窺える気がする)。

 そして第5章が本書のクライマックスだろうが、なかなかの難関だ。まず、何ものも実体性 (reality) や恒常的な自性 (constant nature of their own) を持たず、諸法皆空だとした上で、「万法は心の(生み出す)現象にすぎない」という唯心説を紹介し、八識説と阿頼耶識を説明する。そしてその心の本性を「不変の原理」 (unchanging principle) 、「真如(永遠のリアリティ)」 (bhūtatathatā , permanent reality) だとするのだ。しかも本性は海で、現象は波のようであると言われると、俄然『大乗起信論』や真如(如来藏)縁起の色彩を帯びてくる。確かに、「心の本性」を「真如」とする唯心論 (idealism) こそは、日本代表団の仏僧らが最も訴えたかった教説だと、日本仏教史などがご専門のジュディス・スノッドグラス博士は指摘する (Judith Snodgrass, Presenting Japanese Buddhism to the West, 2003)。

 しかし同時に、黒田師は「われわれは万法が合して心という心理的な統一体を成すとか (all things combine into a mental unity called mind)、万法がそれ(心)から流出する (all things are emanations from it) と言いたいわけではない」とも述べて、いわば「心」の実体視を排し、「万法の生起」は「われわれの心に負っている」 (owe their existence to our mind ) と、私たち自身の心に引きつけて語る。多少は唯識の専門用語なども出てくるが、大乗を「観空得道の法」と明言し、すべてを「一者」 (the “One” ) に帰する異教を批判してきた本書である。分別・差別のない、本来の清らかな心——それは「無量のはたらきやすばらしい行為 (innumerable functions and miraculous actions) の元」とされる——によって衆生や万物と関わることができれば、執着による苦しみの世界から「解脱」し、遠くに求めずとも「涅槃」を得られるという、とても地に足のついた、親しみやすい大乗仏教論だと感じられないだろうか。

 「われわれは、正しい見方 (true view) を保ち、万物の縁起に対する真の理解(comprehension of the causality of all things) に達しようではないか」と黒田師は言う。透徹した空観と『華厳経』(ただし、必ずしも華厳教学ではない)を思わせるシンプルな唯心論……ネットオークションで出会ったイマイチな見てくれの古びた小冊子を、誰にでも開かれたそんな教えこそ「仏教の大きな乗り物」であると、海を越えて世界に訴えかける、そんな小品として私は読んでみたいのである(なお、最後の第6章は日本の諸宗の概説のあと、聖浄二門はいずれも菩薩の初発心と本願の行を究竟する菩薩道であり、「平等の因からは平等な果が生まれ、その点で差別はない」のだと、ここでも因果の理を説いて論を結んでいる。注文があるとすれば、清新で前向きだが、煩悩ゆえに正見に達することのできない私たちの困難が論じられていないことだろう)。

2025年5月1日

浄土真宗本願寺派の八淵蟠龍ら)が参加したのに合わせ、和文原稿が英訳されて、はるばる米国へ運ばれて配布されたものだ(ほかにも清沢満之の『宗教哲学骸骨』や赤松連城の『真宗大意略説』などいくつかの英訳も配布された)。だが実は正確には、私の手元にある1冊は米国で配布されたものが日本へ里帰りしたのではないようだ。表紙をめくると鮮やかな朱色のスタンプが押してあり、中央に出版元の「佛教學會」の名称、周囲に「謝海外施本賛助之好意為紀念贈呈之」と漢文で書かれている。米国で施本として配布するために寄付を募って出版し、その賛助者への御礼の記念品として贈呈されたものらしい。今風に言えば、クラウドファンディングのリターン(お礼の品)のようなものである。

 さて、この小冊子の著者は“S. KURODA, Superintendent of Education of the Jōdo-Sect”とあるとおり、浄土宗学本校(大正大学、佛教大学の前身)で校長・学監を務めた学僧の黒田真洞(くろだ・しんとう。1855–1916年。 1912 [明治45]年に正僧正、没後に大僧正追贈)。だが、「天台、真言、臨済、曹洞、真宗の各学者らの精査を受け」 (carefully examined)、浄土宗学本校の英語教員らが英訳したと記され、「万博に関連してシカゴで開催される万国宗教会議の参加者らへの配布のため」とある。黒田師による浄土宗の解説や宣伝の書ではない。日本の仏教界をあげて、万国宗教会議で日本の仏教、東アジア仏教、大乗仏教を新たな時代にふさわしい世界宗教として訴えることを目的としたものだ。

 ではその「大乗仏教」の「大意」とはどういうものなのか? 本書は6章から成る(なお、下記に記す日本語の章題は、同年にあとから出版された日本語版『大乗仏教大意』に従った)。

緒言(Introductory Remarks)/第1章 施教綱領 (Principles of Buddha’s Teaching) /第2章 解脱涅槃 (Mokṣa and Nirvāṇa)/第3章 業報因果 (Action and Results, Cause and Effect)/第4章 染浄因縁 (Pure and Impure Causes and Conditions)/第5章 万法唯心 (All Things are Nothing but Mind)/第6章 宗派異同 (Sects in Buddhism)

 まず緒言では仏陀の生涯をごく簡潔に述べたのち、その教法はすべて「大乗と小乗」に包括され、どちらも等しく「一仏の教化」であり、「転迷開悟の法」であるが、「観苦得道の法」の「小乗」に対し、「観空得道の法」の「大乗の教義は徧く小乗の教法を包蔵」するという。このあたりには、南伝仏教こそが正当な「仏教」だと見ていた当時の西洋のトレンドに対し、大乗はその堕落でも異端でもなく、「小乗」の教えをも含む、より包括的な教えであることを訴える意図が見て取れる。

 続いて第1章では「無我」を中核的な仏説とするが、あくまでも「我」や「有空」への誤った執着を滅することが目的であり、「自己も魂も存在しない」ということを説く教条主義的な教理 (fixed dogma) ではないと言う(ここにも西洋のネガティブな大乗観に対する目配りを感じる)。そして第2章では自他、主客、正邪などの分別的な執着を乗り越えた完全に自由な状態こそ「解脱」だとし、心の真の性質 (true nature of mind) を顕現させた完全な永遠の楽 (perfect and everlasting happiness) を得ることが「涅槃」だと言う。また、「小乗」が「断滅」 (eternal extinction。日本語版では「寂」) をめざすのに対し、「涅槃」は「単なる断滅」でもないし、あらゆる人に開かれている大乗の「解脱」は「遠くに求むべきものではない」としている。

 第3章では因果(縁起)の理法が説かれ、仏教が近代的な理性や哲学的な吟味に堪えるものであることを訴えるかのようである。このためすべてを「一者」 (the “One”) に帰して諸法の自性は常住 (the nature of all things is permanent) とするもの、天地と万物の造物主 (creator) を説くもの、万法を四大で説明するものなど、(バラモン教、キリスト教、唯物論などを想定したと思われる)「異教」(heretics。日本語版では「異道」) の教理をすべて、因果の理法を理解しない断常二見として排斥している。その上で、第4章では、そうした因果の理法に従う行為の善悪・染浄を問い、声聞・独覚・菩薩の三乗が行う「解脱」へ至る行法を「出世間の善」と規定する。本来的に清浄で善悪の差別の相なき心の本性 (the true essence of mind) と調和する行為を実践すれば、諸仏と平等の果実を得られるとして、「心」に焦点が移っていく。(なお、「出世間の善」は今なら一般にsupramundane goodなどと訳すが、ここではecclesiastical goodとされいて、どこか時代がかった感じがする。このあたりには仏教用語の訳語も定まらない時代に英文を練り上げていったパイオニアたちの苦闘が窺える気がする)。

 そして第5章が本書のクライマックスだろうが、なかなかの難関だ。まず、何ものも実体性 (reality) や恒常的な自性 (constant nature of their own) を持たず、諸法皆空だとした上で、「万法は心の(生み出す)現象にすぎない」という唯心説を紹介し、八識説と阿頼耶識を説明する。そしてその心の本性を「不変の原理」 (unchanging principle) 、「真如(永遠のリアリティ)」 (bhūtatathatā , permanent reality) だとするのだ。しかも本性は海で、現象は波のようであると言われると、俄然『大乗起信論』や真如(如来藏)縁起の色彩を帯びてくる。確かに、「心の本性」を「真如」とする唯心論 (idealism) こそは、日本代表団の仏僧らが最も訴えたかった教説だと、日本仏教史などがご専門のジュディス・スノッドグラス博士は指摘する (Judith Snodgrass, Presenting Japanese Buddhism to the West, 2003)。

 しかし同時に、黒田師は「われわれは万法が合して心という心理的な統一体を成すとか (all things combine into a mental unity called mind)、万法がそれ(心)から流出する (all things are emanations from it) と言いたいわけではない」とも述べて、いわば「心」の実体視を排し、「万法の生起」は「われわれの心に負っている」 (owe their existence to our mind ) と、私たち自身の心に引きつけて語る。多少は唯識の専門用語なども出てくるが、大乗を「観空得道の法」と明言し、すべてを「一者」 (the “One” ) に帰する異教を批判してきた本書である。分別・差別のない、本来の清らかな心——それは「無量のはたらきやすばらしい行為 (innumerable functions and miraculous actions) の元」とされる——によって衆生や万物と関わることができれば、執着による苦しみの世界から「解脱」し、遠くに求めずとも「涅槃」を得られるという、とても地に足のついた、親しみやすい大乗仏教論だと感じられないだろうか。

 「われわれは、正しい見方 (true view) を保ち、万物の縁起に対する真の理解(comprehension of the causality of all things) に達しようではないか」と黒田師は言う。透徹した空観と『華厳経』(ただし、必ずしも華厳教学ではない)を思わせるシンプルな唯心論……ネットオークションで出会ったイマイチな見てくれの古びた小冊子を、誰にでも開かれたそんな教えこそ「仏教の大きな乗り物」であると、海を越えて世界に訴えかける、そんな小品として私は読んでみたいのである(なお、最後の第6章は日本の諸宗の概説のあと、聖浄二門はいずれも菩薩の初発心と本願の行を究竟する菩薩道であり、「平等の因からは平等な果が生まれ、その点で差別はない」のだと、ここでも因果の理を説いて論を結んでいる。注文があるとすれば、清新で前向きだが、煩悩ゆえに正見に達することのできない私たちの困難が論じられていないことだろう)。

2025年5月1日

※Outlines of the Mahāyāna as Taught by Buddha(『大乗仏教大意』)は、英語版も日本語版も所蔵する図書館は少ないが、英語版はオンデマンドの復刻版をネット書店で購入できる。日本語版は雑誌『宗教界』12巻4号(1916年)に再録されたものを国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる。

伊藤 真 ITO Makoto

現在、親鸞仏教センター嘱託研究員
東洋大学・大正大学・立教大学・東京農業大学、各非常勤講師
東洋大学東洋学研究所客員研究員。

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うかつな編者と乗代雄介さんとの出会い

長谷川 琢哉 HASEGAWA TAKUYA 

 親鸞仏教センターに関わっていると、しばしば不思議な縁にめぐまれることがある。
 たとえば以前「今との出会い」のエッセイに書いた話だが、劇作家の嶽本あゆ美さんとの出会いはなんとも不思議なものだった。偶然私が入居したマンションの大家さんが嶽本さんの舞台を手伝っておられる方で、私の職場が親鸞仏教センターであることを知り、その時ちょうど公演が行われていた『彼の僧の娘』(大逆事件で処刑された高木顕明の娘を扱った演劇)を教えてくださったのだ。私はすぐにその舞台を見に行き、それを機に嶽本さんには『アンジャリ』にエッセイをご寄稿いただくことにもなった。

 私が『アンジャリ』web版に執筆のご依頼をした乗代雄介さんの原稿を受け取った時も、不思議な気持ちになった。
 気鋭の小説家として知られる乗代さんのお名前を私が初にお聞きしたのはいつだっただろうか。たぶん数年前に聞いていたラジオ番組でおすすめの小説の作者として紹介されていたのがきっかけだったように思う。何となく気になって乗代さんのデビュー作『十七八より』に遡って 読んだのだった。その時の感想として は、ずいぶんと描写力のある作者だな、という印象をもった。登場人物たちの状況を(時に過剰とも感じられるほどに)丁寧に描き、鮮烈なイメージを浮かび上がらせる手法が際立っていた。

 その頃乗代さんは芥川賞候補にもなっていて注目されていたが、あらためて私が乗代さんに強い関心を向けるきっかけとなったのが、2020年に出版された『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』だった。
 この本は乗代さんがデビュー前の高校生の頃から15年以上にわたって書き続けていたブログの文章をまとめたものである。私が書店で見かけた時、この本の帯にはceroというバンドのボーカルである高城晶平氏が推薦のコメントを寄せていた。ceroが好きだった私は、両者の意外な繋がりを知ったのもあってすぐに購入した。
 「創作」と題された前半パートには短編小説が数多く掲載されていたのだが、これが全く予想外のものだった。その作品はほとんどがシュールなギャグだったのだ。異常なシチュエーションにいる登場人物たちが異常なことを(当事者たちは極めて真剣に)行っていくといった雰囲気の作品が並んでいる。これらの作品を読みながら、私は何度も声に出して笑った。最初に読み始めたのが電車の中でなくてよかったと本当に思った。暴走する作家の妄想力に感化されて、それを真似た短編のシチュエーションを思わず考えてみたりもした(ずいぶん貧弱なものしか思いつくことはできなかった)。
 乗代雄介ってギャクも書けるのかと思いながら読み進めていくと、後半は「ワインディングノート」と題された全くトーンの異なる一連の論考がまとめられていた。大きなテーマは「読む」ことと「書く」ことのようだ。乗代さんが内外の小説家や思想家の作品を独自の視点で縦横に読みつつ、ご自身にとっての「書く」 ということを真摯に追求している。

 ここで正直に告白しよう。私はこの「ワインディングノート」での乗代さんの思索の真剣さと密度について、その時は十分に気がついていなかった。ただ自分にとってのいくつかのキーワードや固有名詞(デカルト、サリンジャー、宮沢賢治、cero、キルケゴール等々)、それ らを通して、著者の「書く」ことへの真摯さを読み取っていたにすぎなかった。おそらくは前半の「創作」の面白さに引っ張られ、「ワインディングノート」への注意を欠いていたのだろう。今から振り返ると、著者に対して大変に申し訳なく、恥ずかしい限りである。ところが散漫な注意力をもってしながら、私は何かを感じ取り、乗代さんに『アンジャリ』にご執筆いただきたいと思った。その時私に強く印象づけられたのは、一連の思索の最後の方に示されている「死ぬまで考え続け、書き続けること」というフレーズである。その真剣さがどこか祈りのようなものに通じているような気がして、乗代さんと『アンジャリ』はマッチするのではないかと考えたのだった。

 後日開催された編集会議で私は乗代さんを執筆候補として推薦し、承認された。親鸞仏教センターの紹介と『アンジャリ』のバックナンバーをいくつか見ていただいた上で、ご自由にお書きいただいて構いません、と乗代さんに執筆のご依頼をした。完全にダメもとでのご依頼だったが、思いのほかあっさりと引き受けていただいた。お返事には仏教や真宗に関心があるという言葉も添えられていた。
 それから数ヶ月後。乗代さんから送られてきた原稿のタイトルは「浅原才一に学んだ小説」というものだった。原稿には、真宗の妙好人である浅原才一のように小説を書きたいとずっと願ってきた、と書かれていた。

 私も「世界のような大きな口で世界の人をだま」すのをやめて、「世界にあるもの、みな」を「噓」でなく、自分や他を欺く術を使わずに書きたいと改めて思う。無論、書き言葉と話し言葉のあわいに居られた才市とはちがうから、いくらかの学問や思索を根こそぎ振り払うことなど不可能なのは10年前から承知していた。でもいつからか、せめて「何事も体験そのものの中から湧いて出る」ように書く努力をしようと考えるようになっていた。

乗代雄介「浅原才一に学んだ小説」(『アンジャリ』web版)

 おそらく読者のほとんどは、このエッセイが『アンジャリ』に掲載されたのは、編者があらかじめ乗代さんの浅原才一(もしくは仏教や真宗)への関心を知っていたからだと考えたのではないだろうか。しかし断じて違うのだ。私は乗代さんの意外なギャグ作家ぶりと、書くことへの真摯さ(およびその二つのギャップ)に惹かれただけなのだ。ご依頼の際には、乗代さんの仏教への関心には気づいていなかった。いやむしろ、仏教や真宗に直接関わりがなさそうに見えたからこそ、『アンジャリ』に書いてもらいたかったのだ。にもかかわらず乗代さんは、浅原才一のように小説を書きたいとずっと考えていたという。原稿を見た時、私はむしろ混乱した。真宗に関わるエッセイを書いてもらうつもりなど毛頭なかった。なのになぜ、まるであらかじめ予定されていたかのような原稿が上がってきたのか?乗代さんに原稿のお礼を伝えるメールにも、素晴らしい原稿をいただき大変ありがたいのと同時に、「率直に言って混乱しています」と書いてしまったほどだ。

 冒頭で述べたように、私はこの時本当に不思議な気持ちになった。自分が意識していなかったところで何がどう繋がったのか。私は、なぜ乗代さんにご依頼しようと思ったのか。この問いは原稿を読んだ後に私に重くのしかかってきた(編者としてこれほど無責任な問いはないだろう…)。そうしてあらためて「ワインディングノート」を読み直したのだった(これも本当にひどい話である…)。
 精読しはじめてすぐに、これは大変な思索だと気づいた。まだ小説家になる前の乗代さんが十代の頃から書き溜めていた六冊のノートには様々な本からの引用があり、ブログにおいてその膨大な引用の一部を使いながら一連のテーマが展開されていた。「ワインディングノート」とあるように、曲がりくねった道を行きつ戻りつしながらも、一つのテーマが粘り強く追求されているのである。そのテーマは「読む」 ことと「書く」 ことについてであった。あるいはむしろこういった方がいいかもしれない。まだ何者でもなかった乗代青年が、たくさんの読書を通じて〈小説家として書く〉ことに真摯に向き合いながら、やがて『十七八より』で群像新人賞を受賞して小説家としてデビューし、「死ぬまで考え続け、書き続けること」といった境地へと至る、数年間の思索の過程が記されている、と。

 ブログで展開されていた高密度な思索が、一冊の本として出版されたのは非常に価値あることだと思う。とはいえ、私には乗代さんを対象とした作家論などあまりに恐れ多いので、本稿のささやかな、いや、編者として無責任な問いに戻ることにしよう。私はなぜ乗代さんにご依頼したのか?無意識のうちに、乗代さんの真宗への共感を読み取っていたのだろうか?
 「ワインディングノート」を再読すると、関連する主題は確かに示されていた。一連の思索は、柄谷行人の『言葉と悲劇』から引かれた「故郷を甘美に思うもの」と「全世界を異郷と思うもの」との対比を出発点としている。後者は「あらゆる共同体の自明性を認めない」態度とされ、乗代さんはさまざまな作家や思想家にその態度を見出している。しかし同時に、特定の言語を用いて書くという行為そのものが、「共同体に属することを証明して」もいるという。つまり、共同体の価値観や習慣を相対化しながらものを書く小説家であっても、共同体の価値観や習慣から離れて生きていくことは決してできないということだ。そうである以上、「故郷を甘美に思うもの」と「全世界を異郷と思うもの」の二極に引き裂かれた状態を徹底的に意識することが、小説家として唯一の誠実な姿勢であると乗代さんは考えている。言いかえれば、共同体への帰属性に対するアイロニカルな態度こそが、小説家にとって不可欠なものだということだろう。

 こうして乗代さんは上記の主題を、自身に浸透している文化的影響をどこまでも意識しながら新しいものを書くという課題として追求していくことになる。ここから先の思索は非常に興味深く、ぜひ一読していただきたいところである(とりわけ、いがらしみきお『IMONを創る』を論じた箇所は秀逸である)。
 ところで、私が読んだ限り「ワインディングノート」の思索は、『十七八より』によって乗代さんが小説家としてデビューしたあたりで、強調点に若干の変化が見られるように感じた。たとえば次のような一節がある。

 僕は、読書が歓びをもたらした場合、それは自分が揺さぶられるのではなく、例えば「文学」が揺さぶられているのだと思うようになり、それを歓びとして読むようになりました。自分の感動なんかより、何千年の歴史を持ち、数え切れない先人達が積み上げてきた「文学」の変動を感じる方が、ずっと大事なことだと思うようになったのでした。

乗代雄介『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』、528頁。

 これまで強調されていたのが〈共同体の価値観に浸透された自己意識を徹底的に反省しつつ書く〉ことだったとすれば、ここではむしろ、〈そうした自己意識を飛び越えて書く〉ことへの志向が表れている。そしてここまで読んでくれば、乗代さんが『アンジャリ』で書かれている「何事も体験そのものの中から湧いて出る」ように書くという浅原才一への共感も明白であるだろう。以上をふまえた上で乗代さんの「浅原才一に学んだ小説」を読んでいただけたら、その思索の一貫性と展開の筋道が理解できるに違いない。

 さて問題があるとすれば、私がそれらにはっきりと気づくことなく乗代さんに執筆のご依頼をしたことである。私はうかつな人間である。しかし乗代さんのエッセイをあらためて読むにつれ、うかつさが価値を生み出すこともあるのだな、とも思うのである。そしてそのことが、寺院出身でもない私が、研究員として親鸞仏教センターにご縁をいただいていることの本質であるような気もしてくるのである(とはいえどんなに素晴らしい結果を生み出したとしても、編者としての私の罪が免除されるわけではない)。

2025年4月1日

長谷川 琢哉

親鸞仏教センター嘱託研究員、東洋大学法学部法律学科教授
東洋大学井上円了哲学センター研究員

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MATSUOKA Junji

嘱託研究員

プロフィール

専門領域

親鸞の思想・浄土の思想・無量寿経と涅槃経

略歴

1990年長崎県生まれ。

2013年九州大学文学部人文学科哲学コース(インド哲学史分野)卒業。

2015年九州大学大学院人文基礎専攻東洋思想分野インド哲学史専修修士課程修了。

2017年大谷大学大学院文学研究科真宗学専攻修士課程修了。

2021年同博士後期課程修了。

所属学会

大谷大学真宗学会、真宗連合学会、真宗教学学会、日本宗教学会、日本印度学仏教学会

研究業績

CiNiiを参照。

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ISOBE Miki

研究員

プロフィール

専門領域

宗教社会学

略歴

新潟県出身。
京都府立大学公共政策学部福祉社会学科卒業。
大谷大学文学研究科社会学専攻修士課程修了。
大谷大学大学院文学研究科社会学専攻博士後期課程修了。博士(文学)
現在、親鸞仏教センター研究員、日本体育大学非常勤講師、関東学院大学非常勤講師、跡見学園女子大学兼任講師。
日本学術振興会 科学研究費助成事業 研究活動スタート支援「個人化社会の葬儀における僧侶介在に関する宗教社会学的研究―法話に注目して―」(2022年8月~2025年3月)

所属学会

「宗教と社会」学会、日本宗教学会、日本社会学会、関西社会学会

研究業績

researchmapを参照。

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