第257回「存在の故郷」⑫ 🈡

 人間は合理的な生活を追求してきたのであるが、現代のいわゆる先進国の人びとは、はたして生きることに満足が与えられているのであろうか。忙しく情報に振り回されている⋯ 続きを読む

第256回「存在の故郷」⑪

 曇鸞が気づいたことは、第十一願のみではなかった。第十八願の成就を意味づけるために、第二十二願をも加えているのである。第十八願に第十一願・第二十二願を加えること⋯ 続きを読む

第255回「存在の故郷」⑩

 阿弥陀の本願の中に、「必至滅度の願」(『教行信証』「証巻」)*。親鸞は『無量寿経』の異訳『無量寿如来会』により「証大涅槃の願」〔同前〕とも呼んでいる)が語られ⋯ 続きを読む

第254回「存在の故郷」⑨

 衆生の本来性である「一如」・「大涅槃」は、釈尊の体験における「無我」を表現したことに相違ない。その無我が衆生の本来有るべきあり方ということである。しかしそのあ⋯ 続きを読む

第253回「存在の故郷」⑧

 この難信の課題が起こってきたのは、仏陀が衆生を無我の菩提に導こうとするそのとき、生きている釈尊を人間の模範として見ている衆生の眼に根本的な誤解があったからでは⋯ 続きを読む

第252回「存在の故郷」⑦

 「難中之難 無過此難」(『無量寿経』下巻)*とされる他力の信は、真実報土への往生を必然とする。親鸞は、その内実を釈迦如来の名で説かれる『無量寿経』の願心とその⋯ 続きを読む

第251回「存在の故郷」⑥

 仏教一般の了解は、人間の常識にもかなっている自力の次第を是とするから理解しやすいが、他力の次第を信受することは「難中の難」だとされている。それは、生き様の差異⋯ 続きを読む

第250回「存在の故郷」⑤

 大乗仏教では、大涅槃を浄土として荘厳・象徴することによって、とらえがたい大涅槃なるものをイメージとして具体化してきた。また浄土教ではそのイメージに基づいて、浄⋯ 続きを読む

第249回「存在の故郷」④

 菩提心が菩提を成就するということを、仏教では因果の転換と表現している。そして大乗仏教では、因が果を必然としてはらむ状態を「正定聚」や「不退転」と表現し、阿弥陀⋯ 続きを読む

第248回「存在の故郷」③

 流転する生命の在り方は生死流転という熟語となり、私たちに現実に変化してやまない日常意識を抱え、状況に流されて生きているのだと教えている。その日常的な在り方が、⋯ 続きを読む

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