第160回「親鸞教学の現代的課題Ⅳ―宿業を大地として―」④
宿業の「不共業(ふぐうごう)」としての面を、宗教的自覚の必須の契機として考察することは、単に個人的事件や個人的事情の時間的背景を考察するということではない。一⋯ 続きを読む
宿業の「不共業(ふぐうごう)」としての面を、宗教的自覚の必須の契機として考察することは、単に個人的事件や個人的事情の時間的背景を考察するということではない。一⋯ 続きを読む
仏教では、業について先に述べた二面、つまり社会的な責任において考察されるべき面と個人に帰属されるべき面をわけている、と考えられる。共業(ぐうごう)・不共業(ふ⋯ 続きを読む
自己の存在の背景に宿業と言われることがあり、そこに実存的責任があるとするなら、私たちはこの限定を誰も逃れることはできない。それによって現実の情況が与えられ、個⋯ 続きを読む
「業」(カルマン)という言葉には、さまざまな意味がある。大まかに言うなら、迷いの意識が動くところに、かならず苦悩の結果が引き起こされるということを、迷いの「行⋯ 続きを読む
親鸞は、報土の因果と衆生がその因果に接するための因果(新羅の憬興〈きょうごう〉は「如来浄土の因果」・「衆生往生の因果」*と言う)とを、結びつけるはたらきをも如⋯ 続きを読む
親鸞は、「正信偈」で報土について、「報土因果顕誓願(報土の因果、誓願に顕す)」*と言っている。報土の因果を説くのは、『無量寿経』の法蔵菩薩が、無上涅槃の功徳を⋯ 続きを読む
親鸞が明らかにする「金剛の信心」*は、貪瞋煩悩(とんじんぼんのう)の生活のまっただなかに発起する。それは煩悩の身を障碍とせずに、凡夫の生活のところに法蔵願心が⋯ 続きを読む
「金剛の信心」(『真宗聖典』537頁参照)が、貪瞋煩悩(とんじんぼんのう)の生活のただなかに発起するなら、無明煩悩が消失するのか。さにあらず。煩悩の身が生きて⋯ 続きを読む
「金剛心」が、貪瞋(とんじん)煩悩の生活のなかに発起する。そのことを親鸞は、「能く清浄の願心を生ずる」*ことであると押さえられた。その元の善導の二河白道の譬喩⋯ 続きを読む
「金剛心」を獲得(ぎゃくとく)するとは、貪瞋煩悩の生活のなかに、「能く清浄の願心を生ずる」*ことであるとされた。親鸞はこのことを、『教行信証』「信巻」の「欲生⋯ 続きを読む