第110回「自然の浄土」④
環境としての浄土を、主体の外側に存在するかのごとくに教えて、それを衆生に要求させる教え方、それが浄土教の教相である。それを衆生は自己の体験の中にいかに定着でき⋯ 続きを読む
環境としての浄土を、主体の外側に存在するかのごとくに教えて、それを衆生に要求させる教え方、それが浄土教の教相である。それを衆生は自己の体験の中にいかに定着でき⋯ 続きを読む
「顕浄土(けんじょうど)」(『顕浄土真実教行証文類〈教行信証〉』を一貫する課題)として、大悲心の回向を衆生が受けとめること、これは本願力の表現を凡夫が受けとめ⋯ 続きを読む
今日、「浄土」と言えば死後の世界と同義語のように日本語に定着し、それが一般的な共通理解になってしまっている。親鸞の時代に、どれほどこの観念が民衆に定着していた⋯ 続きを読む
『無量寿経』が語りかける「浄土」の教えが、長い年月にさらされ風土化した日本の仏教文化のなかで、生きている人間存在にとっての積極的なはたらきを失い、死後の救済の⋯ 続きを読む
如来回向の信心は、涅槃(ねはん)の真因である。因でありつつ、すでにして仏性(ぶっしょう)である。仏性は、如来の智見からは、一切衆生における現在現前の事実である⋯ 続きを読む
正定聚(しょうじょうじゅ)の信心を因として大涅槃(だいねはん)の果を得る。その因果に本来は、この世の時間的な課程を挟まない。このことについて考えようとしている⋯ 続きを読む
正定聚(しょうじょうじゅ)の信心を因として大涅槃(だいねはん)の果を得るという因果について考えようとしている。 この「因果」のあり方は、時間のなかに因が成熟⋯ 続きを読む
親鸞の『浄土和讃』に次の和讃がある。 定散自力の称名は 果遂のちかいに帰してこそ おしえざれども自然に 真如の門に転入する * 人間にとっての時間⋯ 続きを読む
親鸞は「如来の回向」を依(よ)り処(どころ)として、「願生彼国(がんしょうひこく) 即得往生(そくとくおうじょう)」*を、衆生の通常の意識としての心理的体験内⋯ 続きを読む
親鸞は、凡夫に成り立つ信心であっても、真実であり得るか否かを、徹底的に究明した。そして「信巻」において「本願成就」によってのみ、真実の信楽(しんぎょう)が成り⋯ 続きを読む