第90回「〈願に生きる〉ことと〈場所〉の問題」⑥
天親菩薩の「五念門」(礼拝〈らいはい〉・讃歎〈さんだん〉・作願〈さがん〉・観察〈かんざつ〉・回向〈えこう〉)は、先の四門は自利の行であり、第五番目の回向門が利⋯ 続きを読む
天親菩薩の「五念門」(礼拝〈らいはい〉・讃歎〈さんだん〉・作願〈さがん〉・観察〈かんざつ〉・回向〈えこう〉)は、先の四門は自利の行であり、第五番目の回向門が利⋯ 続きを読む
「欲生」(生まれんとおもえ)と、本願が衆生に呼びかける。この呼びかけが人間存在の根源への大悲からの深い信頼の表現であり、衆生が本来の自己自身を取り戻すようにと⋯ 続きを読む
親鸞は「欲生心成就(よくしょうしんじょうじゅ)」を大悲の如来の「回向心」成就として明らかにしている。「欲生」を「回向心」であるとしているから、その成就は「回向⋯ 続きを読む
正定聚(しょうじょうじゅ)と定まった位をいただいて、この現世を凡夫として生きていくことを、仏弟子の積極的な意味として明らかにしようとしたのが、親鸞の「欲生心(⋯ 続きを読む
先回から、親鸞が『正像末和讃』をお作りになられたということについて、聖人の信心と末法濁世との関わりを考察し始めた。その手がかりの一つに、この和讃の草稿段階では⋯ 続きを読む
これまで、本願が報土を建立するという意味での場所と、信心を生きるときにいただく利益との関わりを考察してきた。今度は、「末法濁世(まっぽうじょくせ)」と言われて⋯ 続きを読む
大悲の場所が、求道する者に「正定聚(しょうじょうじゅ)」を確保するという本願の教えの意味を、親鸞は願生する行者が名号を念ずる時、その即時に正定聚に住するのだと⋯ 続きを読む
大きな場のはたらきを、今たしかに受けているという感覚を取り戻すことが、現代に浄土教の信念を回復するために、大切なのではないか、と思う。仏願が荘厳(しょうごん)⋯ 続きを読む
「場」ということで「浄土」のもつ現代的な意味を考えようとしているのだが、もともと『大無量寿経』の浄土は、法蔵願心が衆生救済の悲願を成就すべく「五劫思惟(ごこう⋯ 続きを読む
生きている場ということで考えているのだが、それは人間の精神生活にとって、生きていることを支えている「場所」というものが、いかに大きなはたらきをしているか、とい⋯ 続きを読む