第70回「親鸞一人」⑧

 「利他」の願心を「他力」であると了解した曇鸞(どんらん)の主張は、ちょっと考えると自業自得の因果に抵触するのではないか、と感じられる。にもかかわらず、親鸞はこ⋯ 続きを読む

第69回「親鸞一人」⑦

 「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)」のご苦労は、ひとえに親鸞一人(いちにん)がためであるということの裏側に、自利利他の課題が潜(ひそ)んでいるのではないか、とい⋯ 続きを読む

第68回「親鸞一人」⑥

 自利利他ということは、大乗仏教の標識であるというだけのことではない。生きているということに与えられている根源的な意味なのであると思う。我ら凡夫はそのことには全⋯ 続きを読む

第67回「親鸞一人」⑤

 天親(てんじん)菩薩は『浄土論』において、「自利」なくして「利他」はないし、また「利他」なくして「自利」はない、自利の成就と利他の成就が同時であり交互的である⋯ 続きを読む

第66回「親鸞一人」④

 阿頼耶識(あらやしき)の相分(阿頼耶識自身の意識の内容となるもの)は、「不可知の執受(しゅうじゅ)と処」であるとされる。不可知の執受とは「有根身(うこんじん)⋯ 続きを読む

第65回「親鸞一人」③

 われわれ人間が、「我」があると感じるのは、自己を成り立たせている身体に生命力があり、生命の持続をするための環境が与えられていて、一個の生命体が生まれて死ぬまで⋯ 続きを読む

第64回「親鸞一人」②

 場を自覚し「わきまえ」て、そこから表現が出てくるというところに、日本語の独自の言語表現がある、という井出祥子教授(社会言語学者、東北大学客員教授)のお話をいた⋯ 続きを読む

第63回「親鸞一人」①

 晩年の西田幾多郎(1870〜1945)が親友の鈴木大拙(1870〜1966)に、「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願は親鸞一人(いちにん)がため」(『歎異抄』⋯ 続きを読む

第61回「〈宿業〉について」⑨

 われらの経験の一切を黙って引き受けていくものを、「阿頼耶識(あらやしき)」と名づけている。一切の経験とは、三界〈さんがい〉(欲界〈よっかい〉・色界〈しきかい〉⋯ 続きを読む

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