第60回「〈宿業〉について」⑧
われらの実存の事実を「宿業(しゅくごう)」が支えている。この「宿業」といわれる自己の過去の背景は、いったいわれらのどこに蓄積されているのであろうか。これについ⋯ 続きを読む
われらの実存の事実を「宿業(しゅくごう)」が支えている。この「宿業」といわれる自己の過去の背景は、いったいわれらのどこに蓄積されているのであろうか。これについ⋯ 続きを読む
「宿業(しゅくごう)」が、生得的な生存に付帯する生命力に関わるものであるというところまでなら、良く考えれば、肯(うなず)けるところであろう。ところが、この言葉⋯ 続きを読む
宿業(しゅくごう)が「本能」であるという曽我量深(1875〜1971)先生の言葉を考察している。この本能とは、生命維持のために与えられている生得の能力というこ⋯ 続きを読む
「本能」という言葉は恐らく、生命存在が生まれてくるときすでにその命のなかに与えられている能力に、名を与えたものであろう。教えられないのに、ちゃんと親からその能⋯ 続きを読む
「宿業本能(しゅくごうほんのう)」という曽我量深(1875~1971)の言葉を、先回ご紹介した。このことをもう少し考えてみたい。 「宿業」こそが宗教的な要求⋯ 続きを読む
本願について、曇鸞(どんらん)は「大願業力(だいがんごうりき)」と言い、阿弥陀の仏力について「自在神力」と言っている。大願が成就して報身(ほうじん)・報土(ほ⋯ 続きを読む
宿業(しゅくごう)からの解放が、牢固な階級的枠組みを解体する基点になる可能性はある。しかるに、『歎異抄』はわれらの一挙手一投足は、宿業にあらざるはないという。⋯ 続きを読む
『歎異抄』に「卯毛(うもう)羊毛(ようもう)のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業(しゅくごう)にあらずということなしとしるべし」*という文がある。親鸞の⋯ 続きを読む
「真実報土は、求めずして与えられる」と曽我量深はいう。しかし、これは何もせずに与えられる、という意味ではない。衆生の要求のごとくに与えられるものではない、とい⋯ 続きを読む
有限なる衆生(しゅじょう)に、限りなき慈愛をもって呼びかけ、待ち続けるはたらきを、ここに生きているわれら凡愚(ぼんぐ)の存在の深みに感ずることがある。この深層⋯ 続きを読む