第10回 「濁浪清風」⑩
今年(2004年)の正月になってすぐの1月18日、親しくしていただいていた坂東性純先生(真宗大谷派報恩寺住職・元大谷大学教授)がお亡くなりになった。私たちのセ⋯ 続きを読む
今年(2004年)の正月になってすぐの1月18日、親しくしていただいていた坂東性純先生(真宗大谷派報恩寺住職・元大谷大学教授)がお亡くなりになった。私たちのセ⋯ 続きを読む
先日、ある弁護士の方の一周忌のご法要の席で、友人の方がお話をされた。それはおおむね次のようなことであった。 良い弁護士の条件には、三つの「Y」がある。それは⋯ 続きを読む
自己とは何か。こういう問いがふと自分に起こったとしても、それを問う視点がどこにあるか、ということが大事な問題である。私たちは、普通には自分という意識がいつもく⋯ 続きを読む
いま自分がここに生きている。この自覚は、生まれてこのかたさまざまな事件をくぐりながらも、一貫した身体と共に、自分自身が自分を生きているという感覚である。身体と⋯ 続きを読む
「こころ」の起源について、科学の分野からの探索が進んでいるそうである。生命の起源についても、単に神話的な物語ではなく、物質の化学反応から解明しようとの試みがな⋯ 続きを読む
古代人の「神通力(じんずうりき)」への要求とは、人間が有限であることを、いやというほど日常の万事百般で知らされて、自分に無限なる力を貸して欲しいという要求なの⋯ 続きを読む
精神世界のことがブームなのだそうである。その背景をすこし考えてみたい。 現在の情況の一つに、次のようなことがある。物質の性質やその研究・応用がかなり突き詰め⋯ 続きを読む
このごろの私たちの日常生活は、すでに与えられている近代の生活機器に取り巻かれ、世界を飛び交う情報の渦の中に成り立っている。そこに生活している自己の存在感覚は、⋯ 続きを読む
親鸞の視点には、いつも自分を自分のへそのあたりから見るようなところがある。決して頭の上から見下ろすことをしない。かといって、自分の外部から突き放して見るのでも⋯ 続きを読む