第219回「悲しみを秘めた讃嘆」③
阿弥陀如来の本願が大悲であるとは、「一切衆生」を救済の対象とするということである。それは、大乗仏教を標榜するからにはある意味で当然なのであるが、その一切衆生の⋯ 続きを読む
阿弥陀如来の本願が大悲であるとは、「一切衆生」を救済の対象とするということである。それは、大乗仏教を標榜するからにはある意味で当然なのであるが、その一切衆生の⋯ 続きを読む
諸条件に恵まれてたまたま存在するということを、如来は「無我」と自覚されたのであろうか。条件的な存在のあり方を、「因縁所生」とも教えている。それなのにわれら凡夫⋯ 続きを読む
仏法に遇うことによってわれらが獲得する「歓喜」には、他の喜びとどのような違いがあるのか。親鸞の語りかける信心の内面には、容易にはたどり着くのが困難なことを感じ⋯ 続きを読む
善導が「十四行偈」(『観無量寿経疏』)において表そうとした「横超断四流〈横に四流を超断し〉」*の意味を、「信巻」において論ずる親鸞の意図は、どういうところにあ⋯ 続きを読む
本願を聞くということは、有限の我らが無限それ自身を、有限化しようとすることではないか。これは、実は不可能なことを試みようとすることだといえよう。この限界を教え⋯ 続きを読む
如来の大悲とは、「おおいなる悲しみ」である。「無縁」であるとは、「縁なき衆生」をも摂して捨てないのである。ここに「おおいなる」というのは、「限りなく摂取しよう⋯ 続きを読む
如来の大悲は、「無縁の大悲」であると言われる。「無縁」とは、慈悲が条件によって左右されないことである。無条件でなければ、大悲にはならない。ところが、現実にこの⋯ 続きを読む
一念の信心による超越とは、本願力によって念仏の行者に「生死即涅槃」にかなうような内実が確信されることである。具縛の凡愚の信念にそのような内実が、いかなる意味で⋯ 続きを読む
一念の信心は、具体的には称名念仏において感受される。それが本願成就文に「聞其名号 信心歓喜 乃至一念〈その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん〉」*と⋯ 続きを読む
真実の信心には、「信の一念」*という意義がある。その本願成就の「一念」の内実に「前念命終 後念即生」という意味を聞き開いたのが、善導であった。この一念を単に臨⋯ 続きを読む