第209回「〈願に生きる〉ということ」⑤
「本願を信受する」という信念には、宗教的事実のもつ深い意味がある。それは仏教の自覚において「死して生きる」と表現され得るような、根本的な意識の変革とでも言うべ⋯ 続きを読む
「本願を信受する」という信念には、宗教的事実のもつ深い意味がある。それは仏教の自覚において「死して生きる」と表現され得るような、根本的な意識の変革とでも言うべ⋯ 続きを読む
本願成就の信心は、「本願を信受する」という形で、我らに宗教的事実を興起せしめる。その宗教的事実を、一般的には救済と言い、仏教一般では「悟り」とか「菩提」などと⋯ 続きを読む
親鸞による本願の受け止めとしての信心は、「本願を信受するは、前念命終なり。即得往生は後念即生なり」(『愚禿鈔』、『真宗聖典』430頁)に、見事に結実している。⋯ 続きを読む
『愚禿鈔』にある言葉は、親鸞による本願の信心の領受を表している。そこでは善導の『往生礼讃』の文「前念命終 後念即生」を、本願成就の文「願生彼国 即得往生」に照⋯ 続きを読む
今年、2020年は、曽我量深先生の五十回忌に当たる。今から49年前の昭和46年(1971)に、学園紛争という大きな事件があった。機動隊による大学への介入という⋯ 続きを読む
これまでの考察を通して、『無量寿経』の時間表現の不可解さや如来の因果を立てることの意味が、悟りの仏教(いわゆる自力・聖道門)から信心の仏法(他力・浄土門)への⋯ 続きを読む
親鸞は「信の一念」を、『教行信証』「信巻」では「信楽開発の時刻の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」*と言う。この「時刻の極促」とは、「一念」の時の刻みが極⋯ 続きを読む
先に、「今の一刹那として信の一念を考察したい」と言ったが、この一刹那について、少し確認しておきたいことがある。ここに解明しようとする時間は、言うまでもなく「宗⋯ 続きを読む
親鸞は繰り返し、信心を獲得すればかならず無上涅槃を得られる、と証言される。例えば、「正信偈」で「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃〈よ〈一念喜愛の心を発すれば、 ⋯ 続きを読む
親鸞の自覚は、人間とは「煩悩成就の凡夫」である、とする立場である。決して、衆生は本来仏である、というような楽観的な、いわゆる天台本覚思想などではない。むしろ衆⋯ 続きを読む