第199回「意欲の異質性を自覚せよ、と。―願のままに成就しているとは―②」
そもそもこの愚かな人間が、完全な存在になりうると考えることは、大きな間違いであり妄想でしかないのであろう。釈尊が成仏したということを、この妄想の中であたかも理⋯ 続きを読む
そもそもこの愚かな人間が、完全な存在になりうると考えることは、大きな間違いであり妄想でしかないのであろう。釈尊が成仏したということを、この妄想の中であたかも理⋯ 続きを読む
因の願が、願であるままにすでに成就していると教えられる。これが我らの常識にとっては、実に考えにくい。願いであるかぎり、成就へ向かっている状態であろうし、成就し⋯ 続きを読む
因から出発して果に向かって歩むという仏道の導き方は、受け取った側は必然的に段階的に自己を高めていくということになる。『華厳経』の十地の説き方がその典型であろう⋯ 続きを読む
今との出会い第197回「親鸞の「変成男子」の「男子」とは法蔵菩薩のことである」 親鸞仏教センター嘱託研究員 越部 良一 (KOSHIBE Ryoichi) 「⋯ 続きを読む
仏陀としての釈迦を、如来(タターガタ)として仰ぐようになるのは、釈迦の覚りの体験の本質を、「タター」(…のごとし、如)であると表現されていることから、釈迦の存⋯ 続きを読む
この世のあらゆる生命存在は、有限なる諸条件の下に、いのちの営みをするように規定されている。その根源的な規定は、時々刻々に変わり行く諸条件と対応しつつ、自己自身⋯ 続きを読む
「如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり」(『正像末和讃』)*という和讃は、如来の大悲はすでに成就していると⋯ 続きを読む
真実信心の発起とは、「信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す」*と「信巻」別序に押さえられているように、本願力をその根本の原因とすると、親鸞は言う。邪⋯ 続きを読む
法蔵菩薩の大悲心を自己一人がためと感受する信念は、「横超(おうちょう)の菩提心」であると親鸞は宣言する。個人に法蔵願心を受け止める信心が、「横超」であり、自利⋯ 続きを読む
誓願による「横超(おうちょう)」とは、いったい何であるのか。善導大師の「共発金剛志〈共に金剛の志を発して〉」**を親鸞は「信巻」に取り上げ、「金剛」を凡夫の信⋯ 続きを読む