第190回「親鸞教学の現代的課題Ⅴ―横超の大誓願―」⑪
「横超の大誓願」について考察している。この言葉で表現している誓願による「横超」とは、一体何であるのか。 「誓願による横超」が、誓願の「大」なることを表そうと⋯ 続きを読む
「横超の大誓願」について考察している。この言葉で表現している誓願による「横超」とは、一体何であるのか。 「誓願による横超」が、誓願の「大」なることを表そうと⋯ 続きを読む
ここで、今回のテーマとしている「横超の大誓願」という言葉について、考察してみよう。この語は、言うまでもなく親鸞の「正信偈」にある言葉である。その場所は、天親菩⋯ 続きを読む
親鸞は、善導の「正受金剛心〈正しく金剛心を受け〉」***において、自己にたまわる信心が金剛の心であることを、その根拠の普遍性において論証した。そしてその論証が⋯ 続きを読む
親鸞はかくして信心において、大乗仏教の根本命題である「生死即涅槃」**の実質に横超的に到達できることを、伝承された経論釈(きょうろんしゃく)の言葉によって明ら⋯ 続きを読む
「横超」は、直接には善導の「横超断四流〈横に四流を超断し〉」(「十四行偈」(勧衆偈))*に由来するが、親鸞はそれを『教行信証』「信巻」において、『無量寿経』の⋯ 続きを読む
「横超」とは、大悲の如来と煩悩具足の凡夫との出遇いが、超越的に起こることであると述べた。この事柄について、有限なる我ら凡夫の分位と大悲なる如来の位とを、有限と⋯ 続きを読む
「横超」とは、大悲の如来と煩悩具足の凡夫との出遇いが、超越的に起こることであり、その出遇いを衆生の側から見るならば、自力の分別や反省の思いなどを破って如来回向⋯ 続きを読む
親鸞は我ら凡夫の信心の根拠を、法蔵菩薩の大菩提心に由(よ)るとし、立っている立場が「よこざま」になぎ払われるようなイメージで、その根拠を自覚化せよと示された。⋯ 続きを読む
「超発(ちょうほつ)」という表現を、親鸞は本願の性質であると共に、我らの「信心」の特質でもあると押さえている。それはなぜかとなれば、生死罪濁の凡夫に「真実の信⋯ 続きを読む
「我ら」という言葉があるように、私たちは人と人の間に生存が与えられる。しかし、間を一緒に生きている「他」なる存在を、しっかり理解することほど困難なことはない。⋯ 続きを読む