第180回「親鸞教学の現代的課題Ⅴ―横超の大誓願―」①
人間は単にこの世の時間を平面的に生きているのではない。ここでいう「平面的」とは、ただ単に健康に幸せに現在に満足している生き方を言う。これでことが済むのならば、⋯ 続きを読む
人間は単にこの世の時間を平面的に生きているのではない。ここでいう「平面的」とは、ただ単に健康に幸せに現在に満足している生き方を言う。これでことが済むのならば、⋯ 続きを読む
我ら衆生には、各々に身体と環境(自然環境や時代社会など)が与えられている。この身体と環境を生きている各人の主体は、「宿縁」と言われているような背景を生きている⋯ 続きを読む
親鸞は、総序において本願名号の教法との値遇について、「遇獲行信 遠慶宿縁〈たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ〉」*と言われている。遇いがたき教えとの出遇い、そ⋯ 続きを読む
阿頼耶識(あらやしき)は、一切の経験を蓄積して、しかもその「現行(げんぎょう)」は「無覆無記(むふくむき)」であるとされている。対する末那識(まなしき)は「有⋯ 続きを読む
阿頼耶識(あらやしき)は、自己の一切の経験・行為を引き受けて、黙って新しい自己を生きていく。そこには、自己に与えられる因縁の善し悪しを選ぶことはない。運命的に⋯ 続きを読む
曽我量深の言う宿業本能を、安田理深は宗教的本能ととらえ直し、我ら凡夫の深い宗教的要求であり、それが親鸞の押さえる本願の欲生心であることを確認した。国土を建立し⋯ 続きを読む
曽我量深に「宿業本能の大地」という言葉がある。宿業とは、それぞれの人間存在をこの世にあらしめてくる深い背景であり、個人的な成り立ちを示す性格の強い言葉である。⋯ 続きを読む
一般の仏教の発想は、仏陀が指示する無為法(むいほう)、すなわち大涅槃へ自己の努力を尽くして至り得るとする。それに対して、親鸞は徹底的に自己が無能であり愚痴であ⋯ 続きを読む
仏教の存在(有)の見方は、われら凡夫の現実存在は限定されて与えられていると見る。その縛りつけられた現実の「有」を「諸有(しょう)」と言う。諸有とはしたがって、⋯ 続きを読む
『無量寿経』の本願の主体である法蔵菩薩は、その本願において「設我得仏 十方衆生〈たとい我、仏を得んに、十方衆生〉」*と語りかけ、「若不生者 不取正覚〈もし生ま⋯ 続きを読む